いきたきのこ

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もしも世界で最悪だったら

「もしも世界が100人の村だったら」
という文章を、目にしたとき、
この文章の言わんとすることはなんだろうと思いました。

広い目で見ると、世界にはさまざまな人がいて、
統計で比べれば、あなたはとても恵まれていることがわかるでしょう。
だから、世界のいろいろな人を認めながら、
あなたの幸福を享受しましょうよ。

と、こういうことかな、と首をかしげながら思ったのでした。

これは、世界で非常に少数派の、物理的に恵まれた立場にある人に
向けてのメッセージであって、
それでは、統計的比較でいうと、
「とても恵まれていない」という部類に入る立場の人が読んだら、
どう考えるのだろう?と思いました。

私が首をかしげたのは、
恵まれているかどうか、
あるいは幸、不幸は、まったく個人的なものであって、
比較のしようのないものだと思うからです。

非のうちどころのないほど恵まれた立場にあっても、
「わたしは世界一不幸」と思ったら、
それはその通りということになります。
貧困、争い、身体的苦痛の中にあって、
幸福を感じるのは、力量のいることだけれど、
それでも「わたしは恵まれている」と思うなら、
その人は恵まれていることになるでしょう。

たとえば、マッチ売りの少女は、かわいそうな女の子だったのか?
貧しく不幸な少女の悲劇、
と読む人もあるでしょうし、
困難な中にあっても、美しい夢を見ることのできる、
心豊かな少女の物語、
と読む人もいるでしょう。

他人が、どう解釈しようと、余計なお世話で、
本当のところは、少女だけがわかっているのです。

幸、不幸を比較できるとしたら、
自分の経験の中でだけだと思います。
「あのときの苦痛に比べれば、今は楽だ」というふうに。

「あの人に比べれば、私は幸せだ」と、
他人と比較して幸福をはかることはできないと思います。

そういう比較の中で自分の幸福の位置を決めるんだったら、
物理的に世界で一番恵まれていない立場の人は、
絶対に幸せになれないということになる。

幸福とか恵みっていうのは、
自分の中で自己調達するしかないものだと思うのです。

  1. 2007/10/19(金) 00:00:00|
  2. 心と体
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