いきたきのこ

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問い

思えば、鍼灸学生のとき、私がピンチに陥った時に、
「どーしよう!どーしよう!」と言っていると、
私にバッチフラワーレメディを教えてくれたSさんが、受容的に私に接してくれ、
とても助けになりました。
彼女はそのときすでにカウンセリングの勉強もしていたと思います。

そしてまた、同級生のTさんが、
万事、相働きて益となる
って言葉を知ってる?」と言って、カウンセラーであり牧師でもある田中先生の
カセットテープを貸してくれました。

その日から、私は卒業までの3年間、
毎日毎日、朝も夕も、電車の中で、
そのテープを聴き続けました。

そしてカウンセリングの勉強を始め、今に至っています。

「万事相働きて益となる」、という言葉は、フンなるほどそういうことネ、と、
素通りする人は素通りしてしまう言葉だけれど、
私はこの言葉に人生を変えられてしまったといっても過言ではありません。
とても奥の深い言葉です。

これは決してポジティブ志向の言葉ではありません。

この「益」、というのは、
自分の願いがかなう、とか、
ハッピーな結末に終わればメデタシメデタシだけど、
現実は必ずしもそうではないからです。

どうやっても越えようのない障害、
逃れられない困難、
残酷な結果、
というものに、
直面してしまうこともあると思います。

それを「益」と呼ぶなら、それは一体どういうことなのか?

なんで私が?
なぜこんなことが?
どうしてこんな状況に?

と、?マークがたくさん出てきます。

すると答えが返ってくる。
「私の恵みはあなたに十分である。」

もしかしたら、一般的な見方からすると、サイアクと思われる状態の中で、
なんで?どうして?「それが益に?恵みって何なの?」

・・・・と、問うてしまう。






でも、実は、問われているのですね。
つづく





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  1. 2010/10/27(水) 00:00:00|
  2. カウンセリング

何をきくか の、つづき

恋人同士が、こんな会話をしているとします。
それを翻訳するとしたら?ということを昨日書きました。

翻訳というのは、
女と男が、何を言っているか、ではなくて、
本当は何をいわんとしているのか、です。
もちろん回答はひとつではないですが。


女:「なによ、いつも仕事仕事って。私のことなんてどうでもいいんだ!
キライなんでしょ!」


(自分が放っておかれているような気がする。あなたに大切にされているっていう、実感が持てないの。)



男:「ハア~わからないヤツだな!
もうお前にはうんざりだよ!」


(本当に仕事のことで、ゆとりがなくなっているんだ。そんな俺の事情もわかってほしいなあ・・・)


と、カッコ内は私が考えた翻訳の一例です。

お互いの本音の言葉は、

「私を(俺を)わかってほしい、受け入れて欲しい」
ということなのに、実際には、
まったく逆な効果をもたらしてしまう言葉を、お互いに投げかけてしまっています。

こうしたやりとりを続けていたら、
もしかしたら、お互いに好きな気持ちがあるのに、2人の間に亀裂が入ってしまうかもしれませんね。

日本人には、美しい文化があります。
察する文化、とでもいいましょうか。

ストレートに伝えず、
遠まわしに悟らせるというのか、さりげなくわからせるというか。

ただ、言ってる本人が、「自分の本音がわからない」ので、

「自分が、相手になにかを察してほしくて、表現をしている」、

そういうこと自体に、気づいていないことがあります。


そうして起きる、かけひき、すれ違い。

それだから、せつないドラマや小説も生まれるというものです。


私はよく夫に、

「デリカシーのない女だ・・・」

「ワビ、サビのわからない女だ・・・」

と、
言われます。

すかしっ屁はしない、
音を出す。
(↑というのは上品でないたとえでした)

というか、
それとなく匂わせて、

「わたしのきもち、どうか察してちょうだいよ、
察してくれないのなら、そういうあなたが悪いのよ。」

という表現をするのではなく、
こちらの本音は、直球で伝えるようにしているせいなのか、
ワビサビないのかもしれませんが、
少なくともヘンな誤解、すれ違い、お互いのズレは生じずに済みます。

これは、
「ワカラネエ・・・
いったいお前は何をいいたいのだ?
わかりやすく言ってみろ」と
察してもらおうにも、
それは困難な
(つうか鈍感?)
な夫に、
よく言われていたので、
このようにさせていただいたのです。

おしゃれなドラマの主人公はムリ。

でも、ラク。

ただ、直球を投げるには、自分の本音に直面することが
必要になってきます。

今、自分は、こういう言い方や態度をとっているけど、
本音の心は、何を言いたがっているのだろうか、
と考えることは、
ちょっとした自己カウンセリングになります。

そのときは、自分を主語にして考えると、翻訳しやすくなります。

あの人は、なんという、わからずやなんだ!プンプン!」
と思ったら、
私は、あの人にわかってもらいたかったんだ。こんなにアタマにくるほど。」
というふうに。


そして、自分の心の声に耳をすますと、
人の心の声にも耳をすませるようになってくるのではないでしょうか。
息子さんの罵声に、違う心の声を聴いたお母さんのように。

  1. 2010/10/08(金) 00:00:00|
  2. カウンセリング

何をきくか

最近、あるところで聞いた話ですが、
女性の方で、
その方が、出かけようとすると、
息子さんが、

「家事もろくにしてねえくせに!でかけるんじゃねえ!」と、

悪態をつくそうです。

その方は、カチンとくるそうです。

しかし、息子さんの言葉を、こう翻訳して聴くそうです。

「さびしいんだ。そばにいてほしい。」

息子さんの本音を、しっかりと受け止められている方なのでした。


では、
たとえばですけど、
恋人同士が、こんな会話をしているとします。

女「なによ、いつも仕事仕事って。私のことなんてどうでもいいんだ!キライなんでしょ!」

男「ハア~わからないヤツだな!もうお前にはうんざりだよ!」

あなたなら、どのように翻訳しますか。
  1. 2010/10/06(水) 00:00:00|
  2. カウンセリング

カウンセリングについて

ほんの数分の、ミニカウンセリングをしていただく機会がありました。

自己カウンセリングもできますけれど、
アタマの中で、自分の気持ちを整理するのと、
口に出して語るのは、また、全然違うものです。
自分自身をとても新鮮に見ることができ、心が軽くなるものです。
ほんの数分。でも、これだけ違うのだなあと、改めて、思いました。

当治療室のカウンセリングですが、
現在は、個人的には、もはやシータヒーリングは自分の日常の一部になっていますが、
ことさらにシータヒーリングというセッションはやっていません。
(補助的には用いています)
シータヒーリングは、自分の益とならない思いこみ等をクリアリングしていきますが、
思いこみもあってまた良し。
また、思いこみに気づくことはいいことですが、
それに気づかないことが、悪いことでもないと、今は、思っています。

1歩進んで、2歩下がってもいいではありませんか。

かれこれ10年くらい自分自身のためにカウンセリングに取り組んでいますが、
やはり、わかった!と思ったことが、わかってないことだった、
つくづく、自分がわかってないということが、わかった、
という連続です。

そして、いまだに、何度も何度も、似たような悩みに出会います。
こうしてみると、ろくな進歩はしていないようですが・・・
カウンセリングを学んできて、
自分がなぜ悩むのか?、
そしてそのカラクリは?知ってはいます・・・

あるカウンセリングの先生が、
自分が、実は、なんに悩んでいるのか?、
それをほんとうに知った時、その人は治る、

というようなことをおっしゃっていました。
えたいのしれないものに悩むのと、
わけがわかっていて悩むのとでは、ずいぶん異なるのです。

最初、シータヒーリングをやっていた頃は、「思いこみ」を探すために、
クライアントさんには、たくさんの質問をしなければなりませんでした。
たとえば、「そう感じるのはどうしてだと思いますか?」というシンプルな質問。
質問した側は他意はなくても、
聞かれる側の心理状態によっては、
探られているとか、責められているように感じられる場合もあるかもしれませんし、
質問に答える気になれないこともあるのではないかと、思っていました。

今は、その時々の思いを、随時、おっしゃりたい分だけ、語っていただくスタイルです。
(人生相談のように、こちらから、何かをお教えしたり、アドバイスするということは、やってはいません。)

だいたい、人に何か指摘され、
「ハイ、そうですね、わかりました」と思った事って、
本当は、自分の腑に落ちてはいないことが多いです。

やはり自分のことは、自分でわかりたいものです。

未病を治すのが東洋医学。
ちょっと不摂生して、調子を崩したりする、
そして、気がついたら、早めに生活習慣に気をつけて、ちょっと補正する。

治すのは、その人自身の力。

カウンセリングも、治すのは、その人の、心の自然治癒力。

さほど深刻な状態にならないうちに、
体のメンテナンスとして、鍼灸を受けるのと同じような感覚で、
ちょっと心のメンテナンスをしてみる、
そんなふうに利用していただければと思っております。

スカイプ、電話も可能です。

今日、セミナーから帰ってきたら、いえのそばで、
シカの群れに出会いました。
群れだよ群れ。





  1. 2010/10/04(月) 00:00:00|
  2. カウンセリング

受容と支持

さいきん、いままでは感じたことのない、
吐き気としつこい肩こりを感じるようになり、
それが、100均の老眼鏡のせいだと気づきました。

視力表では、裸眼で一番下の字まで見えるので、2.0はあると思います。
だけども遠視。
新聞は、持って腕をイッパイイッパイに伸ばしても読みにくくなって、
食卓に置いて、
立って、
背伸びして、見下ろすとちょうどよく見える。
説明書、ラベルのようなちっこい字になると読めず、まったく不便で仕方ない。
しかし、100均の老眼鏡だと、どうやら自分には強すぎで、気持ち悪くなっていたようです。

なんだか買いたくなかったシニアグラス、
100均でごまかしていたシニアグラス。
だけど買いましたシニアグラス。
ついにシニアグラスを買った45の秋・・・

と、ぶつぶつ言っていたら、

「お前はことし49ではないのか?」
と夫が言います。

ええっ!!!

ああびっくりした、
自分が(もうじき)49歳だとは知りませんでした。

メガネ屋の方が、
「あなたは目が良すぎてうらやましい!!、
ふだんまぶしいでしょう、遠視の方はまぶしくなりやすいんですよ。」
と言いました。

いままでまぶしかったり、目の調子が悪くて、眼科にはずいぶんかかったけれど、
こんな言葉をかけてもらったことはなかった。
まぶしいのは遠視のせいだったのか、と初めて知りました。

私が学ぶカウンセリングには、「受容」と「支持」っていうのがあるのですが、
不調だろうと好調だろうと、自分の今の状態を受け入れてもらい、それを支持される、
それはうれしいものです。

まったく特別な会話でもない、
メガネ屋にしてみれば、
サングラスを売るための営業トークだったのかもしれない。

だけど、お医者さんに行ったら、いつも、同じ検査して、「別に問題ありません」と言われて、
目薬を出されるだけでした。
こんなに不調を感じているのに・・・

だから、そうよそうなのよ、アタシって目が良すぎ、よく見えてまぶしいの、
こんどサングラス買うわよ!、と思いました。
  1. 2010/09/24(金) 00:00:20|
  2. カウンセリング

心のデトックス 

ヨノナカ、きっと「聴きたい人」より、
本当は自分のこと、思いを「話したい人」が多いと思うのです。

でも、話したいけど話さない人も多いです。

それは、「ただ聴いてもらいたいだけ」で話すのに、
話すと、批判されそう、なおされそう、教え諭されそう、
誤解されそう、過度に同情されたり、深刻に受け止められそう、
な、ときなんじゃないでしょうか。

かといって、何の反応もないのも、ひとりで鏡に話しかけるのと同じなので、
やっぱり、誰か返事をしてくれる人に向かって話したいのです。

だから、ネット上で、つぶやく人がいいっぱいいるのではないでしょうか。
とやかく言われず、ほどほどに、あっさりと、
でもちゃんと自分を受け入れてもらいたい。
しかし、日常生活では、意外とそのようにしてもらえる場はないのです。

私が通っていたカウンセリングのロールプレイの練習の場は、
5年、10年と続けている人が多いのですが、
長く続けている方の一人が、
「私には、この場が絶対に必要」とおっしゃっていたのが、
印象的でした。

どんな自分を語ったとしても、
教えられたり、批判されたり、同情されたり、誤解されたりすることなく、
そのままの自分を、ありのままに受容してもらえる場があることで、
なにか特別なアドバイスを受けなくても、
自分の心が整理され、自分をリセット、次の日からの、活力のもとになるというのです。

私も2年間、毎週続けましたが、今も、通える距離にあればまた行きたいなあと
思うのです。

さて、それを「聴く側」ですが、以前、シータヒーリングのご感想に、
「まるで鏡のようです」という言葉を頂いたことがありましたが、
まさに、話す人を映し出す鏡になるのがカウンセラーです。

今も、カウンセリングの勉強に通っていますが、
そこでは経験豊富な先生のカウンセリングのデモンストレーションがあります。
私はカウンセラー側、クライアント側、両方の立場の気持ちになって
聴衆として聴いていますが、そうして聴いているだけでも、
とてもきついことがあります。

相手の思いにずれることなく、「聴く」ということがどれほど大変なことなのか
痛感するのです。
日頃、いかに「聴いて」いないかにも・・・

「話して心を整理する」、
「話すことをありのままに受容して聴く」
その両方を、「聴くつどい」で体験していただきたいと思います。
そして、語ることをありのままに受け止めてもらえる場は、
多くの人に必要なものだと思います。
  1. 2010/09/09(木) 00:00:00|
  2. カウンセリング

人のために

日曜は東京にハリ、月曜は埼玉にカウンセリングの勉強。
この季節、東京の人ごみの中に行くのは苦痛ですが、
行ったら行ったで、良かったと思います。

シータヒーリングは1回受けただけでもパーっと楽になる、即効性を感じますが、
日々、いろいろなことに直面し、考えや行動はどんどん変化している。
ウォーキングを1週間やって体調が良くなったからといって、
それをやめたら元通りというのと同じようなもので、
まったく気づかないうちに、軸がずれていっていることがあります。
カウンセリングは即効性はないのですが、健康維持と同じようなもので、
続ける価値があります。
このカウンセリングの勉強の場は、ぶれた軸を修正する所、と、
言っている人がいましたが、
今回も、自分の「ぶれ」に気づく機会が与えられました。
チカ治療室のカウンセリング(&シータヒーリング)も、
うまく利用していただけたらと思います。

さて今回メモしてきたことの一部を、自分なりにおさらいしてみます。

「あの人のためを思って」。
一生懸命、人につくしたり、与えたりすることがあります。

「あなたのためを思って・・・」と言われた場合、
それを受けた側だと、どう感じるでしょうか。

うれしかったり、
ありがた迷惑だったり、いろいろでしょう。

「人のために」のスタートラインは、自分。

相手が、ありがた迷惑に感じる場合は、自分でも気づかぬうちに、
自分が思うような良い結果にもっていきたいという、
操作する思いがあるし、それが伝わっちゃうんですね。

一方、「その人の身になって」。

自分の身になって相手が思ってくれている、と感じたときはどうでしょう。

何も言ってくれなくても、してくれなくても、わかる。
気のきいた言葉、配慮をもらわなかったとしても、
エネルギーがもらえる。

その人の身になる、ということは、とても想像力のいることで、
その想像力が、カウンセリングに必要な共感力だと思うのです。

私は、自分の病気が悪化して初めて、それに気づきました。

昔、自分の病気について、ホームページに、
こんなもの、痛くもかゆくもないし病気のうちに入らない、
病気と思うから病気なんだ、という意味のことを
書いた覚えがあるのです。

しかし悪化してみると、いかに無神経なことを書いていたかに気づくのです。

病気がひどくなったら、そして、ひどくなる過程は、
そんなことは考えたことがありませんでした。

実際になってみないと、経験してみないと、わからないことが多いです。
だから病気や試練のようなものは、与えられるのかもしれません。

しかし、体験したことがないことでも、
「その人の身になって」という想像力を働かせられる人は、本当にすごいです。

少しでも、働かせる余裕を持てるようになりたいものです。
  1. 2010/07/06(火) 00:00:00|
  2. カウンセリング

めも

昨日は鍼灸の勉強で東京、今日はカウンセリングの勉強で埼玉。

鍼灸は、さらに可能性が拡がりそうだし、カウンセリングも自分の気持ちを原点に戻してくれます。

今日も、自分の今いる心の位置を確認でき、
ふらついていた心を俯瞰してみることができました。

シータヒーリングは、かるがると心がラクになる。
去年その魅力にひきつけられ、熱心に取り組みましたが、
ラクになり、
しかし、また、あらたに、自分の嫌な面、だめなこと、見たくないこと、に出会う。

そこで、私はシータヒーリングだけでなく、カウンセリングの必要性を感じたのでした。

カウンセリングは、自分の心の物語を言葉に出して紡ぎ出す作業。

自分の嫌な面を見ないようにして、良いところだけ見る。
あまりに認めたくない部分は、ナシにして、潜在意識に入れ、気づかず、正当化できる自分だけ認める。
それはそれで、生きていくための心の働きではあります。

ただ、ここの勉強ではカウンセリングを学んで年季の入った方が多いですが、
自分を深く見つめ続けた人ほど、謙虚になられていて、
普通は人に知られたくない、自分でも見たくない、
自分のみじめでカッコわるいところを認めて、それを語っています。

見たくない、みじめ、ダメ、どうしようもない自分がいる、
だから、OK.
それがある自分だからこそ、OK.

みじめさん(ネガティブな感情)、私からいなくならないで、また、でてきてね。
でてきてくれてありがとう。
いてもいいよ。
いや、いてもらわないと、困る。
あなたがいるから今の私がいる。

ダメ、それだからこそ、大丈夫なんだよ。

ネガティブな感情に市民権を与えてあげる。

それで順調。

今日のメモでした。

  1. 2010/06/21(月) 00:00:14|
  2. カウンセリング

カウンセリングとシータヒーリング

今日は健康体操の日だったのですが、雨の中、遠くから来て下さった方もいました。
ありがとうございました!
tutini
土に穴掘ってねると気持ちいいんだヨネー

jyoisudakko
おとっつぁんがアタシをダッコするの嫌なの。
メリーが激怒して、アタシにカミツクから。

ところで、カウンセリングは、今は、30分単位(4000円)でやっています。(初回は1時間)
最初は、じっくりやらなければならないように思っていました。
でも、鍼灸治療も同じですが、心も体も刻々と変化します。

鍼灸で、今日はこういう治療をやったから、
次回はこんな感じになっていることだろう、次回はそれを重点的にやろう、
と思っていても、予測通りになったことはありません。
カウンセリングも、「こんなんでいいのかな?たったこれだけで…」と思うけれど、
カウンセリングだけでなく、変化する日々の生活の中で、どんどん心も変わっていって、
それでいいんだと思うようになりました。
利用される方も、短時間の方が、「今日、ちょっとだけ…」という気楽さがあるようです。

先日カウンセリングのT先生が
「自分が本当は何に悩んでいるか、気づいたら、その人は治る」というようなことを
おっしゃっていました。
なんと深い言葉なんだろう、と思いました。

いろいろ困ったことが起こって、
「自分は、本当は、何を悩んでいるのか?」
これが、実はわかってないことがあるんですね。
というよりも、ほとんどわかっていないことが多い。(私も含めて)
それを知っていくのがカウンセリングかもしれません。
本当にわかるには時間がかかる。
自分の本当の心もみたくない。
だってわかるのはつらいから。
そういうのを、ちょこっとずつ気軽にやっていければいいと思います。

その点、「べてる」は、その悩みがわかりやすい。
「幻聴さん」に悩まされたり、「お客さん」(マイナス思考)がやってきたりと、
はっきりと現実の苦労として、それに直面せざるを得ず、
悩みをごまかしようがない、
それをべてる流の言い方だと
「いい悩み方」してるねえ、
「いい落ちこみ方」してるねえとでもいうことになるのでしょうか…

シータヒーリングも用いていますが、
これはカウンセリングとは異なったところに、アタマのスイッチが入り、
それで考えてもみないことを思いついたりするのですが、
今は、その中でも、
ご本人も、こちらも、納得がいき、理解できるところだけを取り上げて、
お気軽&コツコツ地道なセッションとなっています。

また、セミナーをやってみて、場の雰囲気が、とてもいいものになるのを感じました。
1対1のカウンセリングより、
この場の力がもっといいものを生み出すように思いました。
べてるのキャッチフレーズ「自分自身でともに」のように、
共通の苦労を共有する場ができるといいと思いました。

セミナーを受けて下さった皆様、またご感想をお寄せいただけると幸いです。

もうしばらくしたら、「カウンセリングを普通の日常生活に生かす」を
やろうと思っております。
  1. 2010/03/24(水) 00:00:00|
  2. カウンセリング

じぶんの研究

納豆の香り高いコーヒーを飲んで、聴きに行ったのは
べてるの「レッツ当事者研究」です。
ここでの当事者とは、精神病の当事者ですが、
医学的な病名を問わず、誰でも苦労は起きるもの。
→当事者研究

誰もが自分の苦労の主人公で、
誰もが自分のスペシャリスト。
これを、意外とわすれがちです。

自分の苦労を、専門家や周囲の人に、丸投げせず、
かといって、かかえこまず、
自分自身で、そしてともに、研究しましょうという試みです。

べてるの講演会は、これまで何度も行っているけれど、
実際に、当事者研究がどのように行われているのか、ぜひ知りたかったのです。
本人にしてみれば、深刻な悩みなわけですが、
私は何度も爆笑してしまいました。
いつもながら、とてもなごやかな雰囲気に包まれていました。
また、本や講演会で知られている、べてるの有名人の方々がいらっしゃるわけですが、
その方々にも新たな変化があって、
まるでリアルなドラマを見ているような…

今回、新しい発見は、
心を深くみつめなくていいんだ、ということと、
詳しい話を聞いたり、話したりする必要もないということ。

カウンセリングでも、どうしても、見たくない、知りたくない、
自分自身というのがあって、
そこを避けたくなるものです。
その心を見つめるというよりは、眺めるのですね。

すごく得るものがありました。
ミニセミナーに参加くださった方には、
べてるのことをちょこっとお話しましたが、
この「当事者研究」を何かの形で生かしていければと考えております。
  1. 2010/03/17(水) 00:00:00|
  2. カウンセリング

ありがとうございました

セミナー参加の皆さま、ありがとうございました!
(ジョイスとメリーが過剰に狂喜乱舞爆裂歓迎してしまってすいません)

皆さまを見送った後、軽い心のざわつきが……
普通は、ざわつきだけでさっと流しますが、
「ざわつき」にも理由があり、それを感じるといいんですね。
話をするのが上手じゃないなあという、「自己嫌悪」感だったり、
眠る前に、考えていると、そのほかにもいろいろ発見しました……

今回は、実は、セミナーでなにかをお教えするというより、
安心な場所をつくる、という目的を持っていたので、
話を上手にできないことが、よかったのかも、とも思いました。
今回、「自己嫌悪とのつきあいかた」というテーマで、
多分、「自己嫌悪感を克服しよう」と思って、いらした方も多かったと思うのですが、
その期待を裏切ることができたなら(?)幸いです。

ところで明日水曜3時~は、健康体操教室やってます。
これは、とても簡単な動きで体を動かすよりも呼吸が大事。
通してやると45分ほどかかり、
体があたたまってきますが、筋肉運動であたたまるというより、
内臓があたたまってくるんですね。
45分間深呼吸を続けてるようなもので、横隔膜の上下が内臓を刺激するんです。
私の場合、後半はアクビばっかりでてきます。
運動不足、運動の苦手な方、高血圧、高血糖、内臓脂肪の多い方、などに特にお勧めです。
お気軽にご参加ください。参加費500円。
といってもスペースが広くはないので、参加希望の方は一応ご連絡を。
  1. 2010/02/23(火) 00:00:00|
  2. カウンセリング

助け過ぎてしまう人

セミナーで「問題のある人」を通じて、「境界線」というのをやりましたが、
境界線がなくなる状態で、起こることのひとつに、共依存があります。

もともとはアル中の人の、家族を指していたようですが、
今はもっと広く使われていますね。

「問題のある人」の近くにいて、
その人を助けてあげたい、救いたい、幸せにしてあげたい、なんとかしたい、
見捨てることなんてできない、と思って、
いっしょうけんめいになる。

そう思うのは、当然ですよね。

でも、そのことで事態がいっこうに好転していない。
助ける方が、消耗していく。
それでも、わたしがなんとかしなければ、と思う。
そして、なぜあの人はわからないんだろう、変らないんだろう、
自分だけが損している、私がこんなにしているのに、感謝の言葉さえもない、
そうして、ボロボロになっても尽くそうとする状態の人、それを共依存と呼びます。

そこでは、「問題のある人」(依存症の人、問題行動を起こす人、病気の人…)に焦点が当たり、
共依存の人本人は「私は助ける人」になっているので、自分の課題に気づけなくなっています。

これが、境界線をひいて考えるとわかりやすいんじゃないかなあ、と私は思いました。

共依存の人は、
他人の庭が荒れているのを何とかしようと思って、
いっしょうけんめい掃除してあげたり、花を植えたりしようとしてる。

そして、肝心の、自分の庭を掃除したり、花を植えることが、おるすになっているのです。

そして、荒れた庭の持ち主は、「そう、やってくれるの、じゃあ、あなたに頼りましょう」
と、ますます庭の手入れを怠る。

共依存の人は、自分の庭は、ボロボロなうえに、
どんなに人に尽くし、救済を続けても、
満たされることがないのです。

しかし、共依存って、まるでビョーキのような言われ方をする場合があるけど、
そうじゃない人を探すほうが難しいように思います。

私は鍼灸師ですが、境界線がないと、鍼灸師と患者さん、
セラピストとクライアント、などが、このような状況に陥ることがあります。

いえ、むしろ、セラピー、看護や介護…、人を援助するような職業を選ぶこと自体、
もともと共依存的なものを持っている人が多いのかも?とも、思います。

共依存の場合、人助けをしたい、そのことの裏に、
実は、すごい弱さがあるわけなんですよね。

「あなたのおかげでよくなりました。ありがとうございます。」と、言わせたい。

人助けをしなければ、自分がじぶんであっていいのだと認められない。



本当は、それほどに、自分という存在に自信がないのだ…と。


そういうことも含めて次回のセミナーでやろうと思います。
  1. 2010/02/07(日) 00:00:00|
  2. カウンセリング

自分の心に光をあてる

私はカウンセリングスクールで、さまざまな集中講義を受けた後、
実践訓練の場に、水戸から東京まで毎週、2年間通っていました。
これは、3年で一応修了なのですが、私は2年で中断。
10年くらい続けている方もいて、
私は「冗談じゃない!3年でも十分すぎるくらいだ。10年も続ける人の気が知れネェ…」
と思っていました。
特に1年を過ぎるあたりで、自分と向き合うのがつらくなり、
「私はただ愚痴をこぼしに行きたいだけじゃないのか」と嫌になったものでした…
先日、同期の方と会う機会があり、まだ続けていると言っていました。
でも、今なら、続ける意味がわかります。
今年は、毎週といかないまでも、また少し始める気持ちになりました。
シータヒーリングを知ったことが後押ししてくれたのですが、
その結果、行っているセッション自体が、シータヒーリングが、メインではなく、
普通のカウンセリング中心になりつつあります。

私がカウンセリングを学んだスクールの主催者の先生は、
数年前「このカウンセリングスクールが、なくなってしまうのが夢」とおっしゃっていました。
そして本当に、スクール自体が縮小してきています。

そのぶん、スクールの大切にしてきた理念が各地に拡がっている。
ビジョンではなく、ミッション、
「スクールそのものの繁栄」ではなく、「理念が拡がること」、
それこそが、先生の夢だったわけです。
教わってきたことをこれまでもポツリポツリと、HPに書いてきたのですが、
今思えば、教わったものを丸呑みで、わかったつもりで、わかってませんでした。
でも、今は少しずつではありますが、それらを消化して、
ようやく自分の言葉に変換できるようになってきたようです。
理念を伝える一助となれば、
それをお分かちできればと思って、ミニセミナーを始めました。
私が受けてきた先生方の講義があまりにもすばらしく、1秒も飽きさせない魅力あるものだったので、
自分のような者にはセミナーなんて一生ムリ、
と思っていましたが、シータのおかげで始める勇気が出ました。
そして、やってみると、そのすばらしい先生方とは異なる、
すばらしくはないが自分の立ち位置で、やれることはあるなあと思いました。

受けて下さった方々の感想は、「自分だけじゃないんだ」という安心感が多かったようです。
また参加したい、と言っていただきありがたいことでした。

大切なことはとてもシンプルで、
そのことは重複しますが、いろんな角度でシェアしていければと思います。
2月も、やろうと思いますので、上の、おしらせをご覧ください。
  1. 2010/02/06(土) 00:00:00|
  2. カウンセリング

他人というスクリーン

あるカウンセラーの先生がおっしゃっていたことを思い出します。
「カウンセリングが成功するかどうかは、セッションをしていてすぐにわかる」


それは、

クライアントさんが「自分の心の声」を、聴けるかどうか
に、かかっている。ということでした。

ミニセミナーにご参加下さった方々ありがとうございました。
個性的で魅力的な方々ばかり。
そして、「自分の声」を聴こうとされている方々でした。

他人や、状況(もしくは社会、環境、世間etc.)に、問題があったとして、
あの人(の考えや、やってること)、もうちょっと改めて、なんとかすればいいのに!
と思って、こちらがイライラするなど、不愉快な感情が強く引き出されることがあります。

そのとき、「なぜあの人は…」と、その人の問題だと考えているかぎりは、
どうどうめぐりです。

なぜなら、あの人の問題は、こちらで変えることはできないのです。
どんなに問題が大きく、その人が苦しみ、悩んでいても、
他人に多大な迷惑をかけていようと、
本人がそれを変えようとしないかぎり変えることはできないのです。

ここで、「あの人の問題」でイライラしたり、ムカムカしたり、悲しくなったり、なんとかしてあげたいと思ったり…
自分の心の何が、その人の態度や言葉に、反応したのか、
その声を聴いていく、てがかりを提供させていただきました。

「問題をかかえている他人」
に、映し出されるのは、実は、自分のテーマです。
他人の課題は変えられなくても、
その「問題のある人」を通して、自分の課題を知り、自分が幸せになることは可能です。

このセミナーの準備をするに当たっては、
私自身、吐き気がするほど、自分の心と向き合うことができました。
本当にありがとうございました!

  1. 2010/01/26(火) 00:00:00|
  2. カウンセリング

めりたん1周年

メリーのメリーは、メリークリスマスのメリー。
meri-


テッポー玉メリーが、うちにやってきて約1年たちました。

とっても素直で単純な性格のメリーですが、
私がメリーを理解するまでには、しばらく時間がかかりました。

強気で、負けず嫌いに見えて、
実は、こわがりでやさしい犬だとわかるまで、
イラッ!と、させられることもしばしば・・・

そして、メリーは心に不安をかかえた犬でした。

新しい飼い主に引き取られた犬って、
どのくらいで「この人が、家族、ここが、我が家」と感じるのでしょうか。

ジョイスは、よくなついてくれたけど、とても私に気を遣い、
完全にリラックスしているなあと思えるまで、半年くらいかかったと思います。

そして、メリーはもっとかかった。
こう見えて、繊細なメリー。
ジョイスが急病になったときは、私の血相を変えた様子に、パニック状態にもなりました。

最近になってようやく、「家族、我が家」と感じてくれるようになったんじゃないかな・・・

むやみと吠えなくなり、モーレツにけたたましい犬から、ふつうにウルサイ犬へ…

犬にとって、保健所で過ごすことは、想像以上にこわいことで、心に傷を負うことなんだと思います。
メリーは、君津保健所→富里愛護センターと、比較的長くいたんだと思います。
メリーに関する書類には、「よく吠える」と書いてあったけど、
オリの中で、朝となく昼となく「出して!出して!こわい!こわい!」と、
メリーは絶叫しっぱなし!だったことでしょう。

犬も、心に受ける傷は、人間となんら変りありません。
そして、それを回復させるのには、ゆっくり、やさしく……

それは、人間の、恐怖症やパニック障害と一緒で、
どんなに、「落ち着いて、こわくないよ、大丈夫だよ」、と説得されでも、
どんなに、「大丈夫なはずだ!」、と思っても、大丈夫じゃないように、
繰り返し、安心を与えられ、
少しずつ、少しずつ、「大丈夫だ」と思えるようになっていくのだと思います。

私は今年、シータヒーリングに出会い、
それによる、心の軽くなっていくスピードに、魅せられました。

しかし、一目編み、ほどく。そしてまた編む。
そんな、プロセスも、忘れてはならないものだと、改めて思ったのです。
そこで、いままで積み重ねてきたカウンセリングを大切にしていこうと、改めて思いました。

自分の心の声をていねいに聴く、それは奥深く、長く、一生かかる探求ともいえます。
そして、自分の心の声を、いちばんちゃんと聴いてあげられるのは自分自身だし、
そうしてあげなきゃかわいそうです。
そんなわけで、自己カウンセリングの方法をお伝えしようと思い、ミニセミナーも始めました。

なにか心にひっかかりがあって・・・そして、自分の心を知りたい、
そんな方は、ぜひ利用していただければと思っています。
横浜でのセッションも続けていこうと思っておりますのでよろしくお願いします。
meri-
メリーのふともものとこ、とくにココの毛がビロードみたいで、
とても手触りがイイ・・・
  1. 2009/12/24(木) 00:00:00|
  2. カウンセリング

心配するってこと

うちの犬ジョイスが、危篤状態だったとき、
つくづく思い知らされました。
自分のエゴを。

ジョイスを見ていて、心配で心配で仕方なく、そしてもうすぐ死ぬと言われて悲しかった。

そう感じながら、これぞ、エゴ!と思っている自分もいました。

要するに、ジョイスのことを思いやっているのではなくて、
自分がつらいんです。
苦しむジョイスを見ている自分が。
そして、早くこの苦しみから逃れたくて仕方ありませんでした。

当事者(犬)からしてみれば、
自分のことで周りが嘆き悲しんだり、あわてふためいたりする様子は、
うれしいな、とは思えないでしょう。
むしろ、どうしたんだろう、とかえって不安になることでしょう。

「心配する」・・・っていうのは、いかにも相手のことを思っているようで、
実はネガティブなエネルギーを送っているのじゃないかと思うのです。

それというのも、
「心配する」って、
「いま、わるいことが起こっている!」「これからわるいことが起きるにちがいない!」という
想定のもとに起きる思いだからですね。

もっというと、当事者の力(治癒力とか)を、信頼していないということです。

そして、当事者(犬)にしてみれば、他の人が苦しむことは望んでいないのです。

結局、私にできたことは、大丈夫、大丈夫、おりこうさんおりこうさん、と
声をかけ続けることだけでした。

先日、
ある方から、
遠方に住む息子さんのことが心配で眠れないというお話や、

別な方からは、逆に、
自分の病気のことで家族が悲しんでいる、
というお話をうかがいました。

本当に、それは、どうしてもそんな思いになるだろうなあ、私だってそうなるだろうなあ、
と、思う一方で、
当事者にしてみれば、
一番欲しいものは、
悲しまれたり、心配されたりして、「わるいこと」、を想定されることより、
「自分のことを信じて、本当に思いやってくれている」、という実感だと思います。

大丈夫!という安心感や、
そして、「善いこれから」、を信じて見守ってもらってるという、
「心配」
よりは
「信頼」。

そんなエネルギーを送られた方が、
きっとうれしいし、力になるんじゃないのかしら。

そんなことを思い知らされたジョイスの一件なのでした。
  1. 2009/12/16(水) 00:00:00|
  2. カウンセリング

なにが問題か、誰の問題か。

神よ、私にお与えください

変えることのできないものを受け入れる平静な心を

変えることのできるものは変える勇気を

そしてそれらを見分ける知恵を


という有名な祈りがありますが、
人間関係では、これの逆をしたくなることが多いのではないでしょうか。

コントロールできない「他人の問題」が、変わることを望み、
コントロールできる「自分の問題」を変えることができないのです。

これに関することを、「境界線」という視点を通じて、先日の講習会でやりました。

人間関係でトラブルがあったとき、
他人と自分との間の境界線がわからなくなってしまうことがあります。

シータヒーリングのセッションでも、人間関係でのお悩みがあったとき、
多くの方に「他人との心の境界線を引く」という呼び覚ましをやりました。

これだけで、心が軽くなる方もいるのですが、
そもそも「境界線」に対する捉え方がわからなければ、意味がないなあと思いました。

もしも、境界線を引く、と聞いて、
他人を拒む塀、とか、バリアととらえてしまうと、
良くない意味に捉える方もいるかもしれませんし。

境界線を引くとは、
どこまでが、他人の問題で、
どこまでが、自分の問題か。

どこまでが、他人の責任で、
どこまでが自分の責任か。

自分の限界、他人の限界、

他人の権利、自分の権利など、

自分の領域、他人の領域を理解し、尊重することです。
そして、その境界線は、許可があれば、出入りできるし、位置も変えられるものです。

たとえば、他人から嫌な目にあい、
とても不愉快になったとします。

ここで線を引くと・・・・・

他人が嫌なことをした事実は、他人の問題。

それを、その人がどう扱うかは、こちらでコントロールすることはできません。

それがわかると、

「なんであの人はああいうことをするのか」
「なんであの人は心を改めないのか」
「なんであの人はあやまらないのか」
「なんであの人は反省しないのか」
「なんであの人に天罰が下らないのか」

ということは、本来、自分の境界線の外に出すべきことだとがわかります。

自分が変えることできるのは、自分の領域内のこと。
すると、

その人とのトラブルの中で、

「そこで起きている自分の問題」は何か?
という方に、心をシフトすることができます。

それは、「変えられない他人の問題を、自分の境界内に持ち込み、かきまわされていること」です。

そこで、自分に変えられることで、自分の心を楽にすることは何か、です。

相手に、「あやまってほしい」と伝えるのか、
それとも仕返しするのか、
許すのか、
忘れるのか、
…その他いろいろ自由ですが、
こちらが、なかなか難しいものなのです!!
相手を憎み続けるのが、一番簡単だったりします!!

そして、自分の権利を大切にするように、他人の権利も尊重するのは、こちらの責任です。
あやまってほしい、と伝えたとして、
相手が、自分の思う通りになるかどうかは、手放さなければなりません。
これが、なかなかできないものです。

でも、それが境界線を引くということです。

自分の敷地が、ボロボロになったのをそのままにしたまま、
他人の敷地に対して、あのキタナイ敷地をきれいにできないものかと
そっちの方で思い悩んでしまうことが往々にしてあります。
自分が不幸せなのに、他人を幸せにしようとするとか。

それ以前に、自分の敷地の管理が必要なのです。
自分をいつくしむとか、幸せにさせる、心安らかにさせる、とか、
そういうことは、自分の境界の内のことですね。
  1. 2009/12/02(水) 00:00:00|
  2. カウンセリング

おばさんのあやまち

ノニのビンと、梅酢を入れてるビンと似てるなあ。
用心用心。

と、指差し確認したんですよ。

その後、おばさんの絶叫が響き渡った。



入れてしまった。



ノニを。



漬物に。



なぜ入れてしまったか。


指差し確認したのに。


わからない。


でも、おばさんあきらめない。

貧乏性だから。

ゆずと、シソの実を大量に入れてみた。
食えるのか!?

わからない。


以上、おばさんのあんまりなポエムでした。

obasannnoayamati
左より、冬イチゴ、梅酢、ノニ(だいぶへってきた。飲んでる・・っつうか、飲ませてる、夫に。&シソの実。)
野生の冬イチゴ、ウチの犬も大好きです。

ところで、お知らせに書いた、「心の世界を知る&ちょこっとシータヒーリング」ですが、
テーマは、「嫌な思い出の繰り返しを、おしまいにする」
に、しました。

潜在意識がやる、嫌な思い出の処理方法は、いろいろありますね。
その中で、反すうしてしまう場合がある。
それはそれで意味のあり、必要なこともあります。
でも、先へ進めず、その人のためになっていないこともあります。
シータヒーリングも用いながら、心を軽くしていきましょう。
ご希望の方は、メールか電話でどうぞ。
  1. 2009/11/23(月) 00:00:00|
  2. カウンセリング

認知のゆがみ(安心して絶望しきれない人)

(前回のつづき)

土台にあるもの、それは、前も書いたことがあるけど、
存在不安です。

この世に存在していいんだ、という承認を、自分で、自分に与えられない。

しかし、一生懸命に努力して生きている人ほど、こう言うでしょう。

「いいえ。そんなことはない。
私は、私の存在価値を認めています。」

でも、その存在価値は、条件付き(Doing)なんです。
頑張った自分、よい結果を出した自分、成功してるとき、
他人が認めてくれたときなら、存在価値を認められる。

その逆だったら?
怠け者の自分、失敗した、堕落した、
罪を犯した、他人から拒否された自分だったら?

もしもそういうとき、そんな自分は認められないと、
否定し、落ち込むのなら、
自分の存在価値を、無条件には、認めてないってことですよね。

でも、一生懸命生きてる人は、そんなときにも、
ほんとの自分はもっとマシだと思いたい、
そして、これ以上落ちたくない。
どん底には落ちたくない。
そして、もがく。
だから苦しい。
たぶん、安心して、絶望しきれないんですね。

うつ病にかかったK先生は、頑張っている自分が好きだったそうです。
そして、頑張れない自分を否定していたから、より苦しかった。
無条件に自分の価値を認められなかった。

でも、ついに絶望し、白旗を上げ、
自分のエゴに完全降伏し、
底付きし、神に任せた。

そこで、ようやく、

「神様は、できるできないで判断しないんだよ。存在するだけでいいんだよ」という
少年の言葉が、心の奥深くまでしみとおったのでしょうね。
(実は、このメッセージは、K先生自身が、少年に与え続けたメッセージでもあったわけですが)

心の奥深くでは、「自分は、本当は、自分の存在価値を認めていない」。

でも、それを払拭したくて、必死で一生懸命生きている人は、
この「自分が自分の存在価値を認めていない」ことは、
「認められない」。

カウンセリングやヒーリングでも、私はそこには踏み込めません。
なぜなら、
「自分が自分の価値を認めていない」ことを、
ほんとうに「認めること」は、
自分で自分に死ね、というくらい、つらい、絶望的な、おそろしいことだ、
と、潜在意識は判断し、隠しているのかもしれませんから。

K先生は、底までついたとき、
がんばれない、怠け者の自分を、それも大切な価値ある自分、と認められるようになったといいます。

人は、自分で自分を受容できないとき、
他人に受容を求めます。

これは、カウンセリングを学んで、一番心に残っているT先生の言葉です。

他人から、どう受けとめられるか、認めてもらえるのか、評価が気になり、
それによって、気持ちが、上がり下がりする。

だから、
「他人から、受け入れられなかったということは、自分がダメだという意味ある。」
そして、「人は、いつも私の気持ちを、肯定的に受け取るべきである」などという
思いこみができてきます。
私のように。

人の目が気になる。人の顔色をうかがってしまう。他人の反応を気にしてしまう。
誰にでもあることですよね。
そのときに、自分の気持ちが
他人によって、有頂天になったり落ち込んだりさせるようなものだと感じたら。

他人に対し、
「そんな言い方ってないじゃない」
「ひどい目にあわされた」
「白い目でみられた」
「人格を否定された」
と、感じ、腹が立ったり、落ち込んだ時。

それは、
「私は、自分の存在価値を、無条件には認めていないんだ」、
と、
自分の本音を、正直に認める、チャンスにもなるんですよね。

自分は、まさしくダメ人間である、と、
絶望的なときにも、
ムダに、もがかずに、安心して絶望し、底まで落ち、
神様にお任せできるんじゃないか、
と、期待できます。
  1. 2009/10/30(金) 00:00:00|
  2. カウンセリング

認知のゆがみ(簡単に、へこむ人、キレる人)

前回のつづき。

こういうのは、本人より、他人の目からから見た方がわかる。
その人の潜在意識は、本人が気づかず、
他人の方がよくわかる場合があるのです。
 
私は、手紙を断られたときに、「迷惑がられた」と、勝手に解釈し、
ただ喜んでいただきたかっただけなのに、と、
その自分の気持ちを、否定されたととらえました。

これが認知のゆがみです。

断ったのは、単にその方の都合だし、知らせてくださったのは、
こちらへの配慮だったかもしれないにもかかわらず、
私は自分への否定と受け取ったのです。

その裏にある私の思いこみは、

「人は、私の気持ちを、なんでも肯定して受け取らなきゃダメである。」

「断られるということは、私の気持ちが否定されたという意味である。」

だから、断られた→私の気持ちを否定された→がっかり→他の人も否定するかもしれないという恐れ
→もうやめた
という思考の飛躍が起こっています。

ここでは、私の恥ずかしい話を書きましたが、
断られたり、注意を受けたり、自分にとって都合のわるいことが起きたときに、
簡単に、へこんだり、キレたり、過度に気にしてしまったり、
パニックを起こしてしまう場合がありますね。

その場合、似たような認知のゆがみが起きていることがあります。

自分に都合のわるい事実=自分が否定されたということである
=それは自分がダメだという意味である

↑というおかしな考え。

そして、落ち込む、ムキになって怒る、パニックになる。

その土台になっているものって、何だと思われますか?
  1. 2009/10/29(木) 00:00:00|
  2. カウンセリング
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